「自分を嫌いになる」にはどうすれば良いの?

ブログを本格的にやり始めて2ヶ月になる。仕事以外でこれだけ長期間にわたって物事が続くという経験は僕スケールでは初めてだったので、小銭を稼げるというコトを知り味をしめてしまったという点を除いても、中々良くやってるじゃない、と思う。

 

正直に言うと本当に言いたいコトなんて最初の数記事でとうに尽きていた。僕は、ただのどこにでもいる一般人で、どこにでもいる一般人に毎日誰かに伝えたくなる様な出来事なんて起こる訳が無い。それでも僕の中で、なんだが書くという行為と自分のアイデンティティがどこかで結びついている様な気がして更新をどうしてもサボるコトができなかった。

ただ、2ヶ月間なかば強迫観念にとりつかれながらも記事を更新してきた中ではっきりとわかってきたコトもあった。それは、

 

僕は「幼稚で無学のひねくれ者」であるというコトだ。

 

僕はアラサーど真ん中にいるもう立派な大人なんだけれど、数週間前のこの記事とか、つい数日前のこの記事とか、到底アラサー男が書いて良い文だとは思えない。根拠が薄すぎるし、筋は無理やりだし、だから文章的にもペラペラで説得力が無い(てにおはも怪しい)。大体その独善的で強硬な考えを垂れ流しつつ同意を求める卑屈さはなんなのか。

文章を書くというのは残酷でその人のレベルがはっきりでると思う。そして僕は幼稚すぎる。

じゃあ、その場の思いつきで書くのではなく、しっかり知識に基づいたコトを書けば良いのだが、それもできなかった。僕は無学だったから。今まで専門的に勉強したコトも熱烈な興味を持っていたコトも特に無いのだ。いまさら深い話なぞ出来る訳が無い。うわべだけの情報を聞いて知った気になる「まとめブログ」のような男だったのだ。僕は。

斯くなる上でブログを盛り上げるためには、いわゆる、読者の役に立つようなライフハック系の記事を定期的に更新するしかない。検索ワードやSEOを意識した上で記事を書き続ければ、ブログのPV数を上げるコトはそこまで難しくは無い。うちで言うこの記事とかね。しかし、それも僕は拒否した。このやり方はもう完全に仕事であり、自分の意思より客観性を重視する「企画屋」に他ならない。企画屋が主張するマーケティングが世の中を面白くした為しは無いし、そのマーケティングの枠から飛び出る個人を救うコトにこそ、ブロクというメディアの価値もあれば意味もあると考えている僕にとって、この選択は魂が拒否した。

 

ブログはブログ主の性格・性能が如実に出る。

そういうわけで「幼稚で無学のひねくれ者」がただ単に意味も価値も無い意見とも呼べぬ与太話をただアップする過疎ブログとしての今の「ありふれた事件」があるのだ。

 

ただ、もう一つ厄介なコトにも気がついてしまった。それは

本質的に「僕は自分のコトが好き」というコトだ。

僕は「幼稚で無学のひねくれ者」である。卑下も謙遜もしていないし、現にこのブログを書いていても、自分のあまりの性能の低さに直面するコトで酷く落ち込み今までの人生を後悔するコトも沢山ある。

ただ、結局、その性格や性能で30年あまり生きてきたのだから、それにはもはやただならぬ愛着と執着があり、さらに考えると「大人で博識で実直な僕」というのはもう僕じゃ無いよね、という結論に落ち着いてしまう。ともすれば、「このままの自分が受け入れられない世界ならもうどうでも良いや」と思ってしまうコトすらある。そのくせ一人前位に自己顕示欲だけはある。

 

僕の好きな漫画のキャラのセリフから引用すると

「弱いまま強くなりたい」のだ。僕は。

本当にどうしようもない。

 

世の中には「自分を好きになる方法」的な本や言説が出回っている。それは本当にそうなのか?どんなに自分で自分のコトが嫌いと言っていても、本心ではそんな自分が好きだからこそ、今の自分を変えられないんじゃないのか?

 

人生におけるブレイクスルーは本当に心から「自分のコトを嫌いになれた時」にこそ訪れるものだと僕は思う。嫌なものから離れるために人間が出せるパワーは半端では無い。そして、そのパワーにこそ自分を変える力があるに違い無い。

 

「自分のコトを嫌いになる」にはどうすれば良いのか。いまの僕にはそれが全然わからない。