DIY葬、坊主なし葬・・お手軽葬儀の危うさ

今年の3月に祖父が亡くなってから祖父に振り回されっぱなしだ。通夜、告別式はもちろん、その後定期的に続く法事の数々。そう近くも無い、父方の実家へ頻繁に通う日々が続いている。

つい先日も、「納骨式」とやらで完成したばかりのお墓に行ってきた。初めての体験だったのでどんな仰々しい儀式かと思ったら、ただ単純にお墓に骨を入れるだけの単純なもので、30分程度て終わってしまった。しかも、その30分の大半は墓石業者がシーリング作業をしているのを神妙な面持ちで見守るという、なんとも言い難い奇妙な体験だった。

この儀式に参加するためにかかった交通費は約3万円。バカにならない。

だいたい、父方の実家というのは葬式に対してこだわりが強すぎるのだ。今時珍しく通夜に100以上の人を招待し、坊主も5人きた。宗教的には最上級のもてなしだそうだ。

墓地も都会の一等地、墓石も周りのそれより一回りはでかい。

ちらりと盗み見た葬式、墓石の明細書は合計500万円を超えていたように思う。

500万、とっくに破綻しきっている僕の人生を十分やり直せる金額だ。

何度「うちの祖母がDあっさりした性格の持ち主で、DIY葬とかで残ったお金を僕にくれたら」と思ったことか。

 

というように、僕は元々「葬式否定論者」である。神や仏など信じてはいないし、もう死んでしまった人のために生きている人が大きなお金や時間を浪費する事は心底バカバカしいと思っている。加えて、戒名一つでまたこれもバカにならない額を取る宗教関係者は胡散臭いとさえ思う。

 

ただ、祖父の死を通じて何度か法事に参加し、その度に満足そうな祖母の顔を見るにつれ「まあ、そういう古式ゆかしい葬式も否定するようなものでも無いかな」と考えるようになった。

 

この経験から改めて僕が認識させられたのは「葬式が誰のためにあるのか?」という事だった。

当たり前かも知りないけれど、葬式は死んだ人のためにやるものでは無い、いや喪主にのためにやるものですらないのだろう。おそらくお葬式は「故人に対して幾ばくかの情を持つ人すべてのために」行われるものなのだ。

はっきり言って、故人の事なんかほんとんど関係なく、残された人々が納得するために行われるイベント、それがお葬式だ。

これは故人が「葬式はしないで良いよ」といっても同じ事で、あくまで生きている人の満足の最大公約数を模索しなければならないと思う。たとえ故人の意思に背くような事になったとしても・・・。

この考え方をするようになってから僕は、少なくとも憤らずに法事に参加できている。

僕は故人を弔いに行くんじゃ無い、祖母や親戚を満足させるために行くのだ、と。

 

ただそう考えると、近頃話題のDIY葬やら坊主なし葬やら家族葬がちょっと心配になってくる。

それは本当に「残された人に最大公約数の満足」を与えられているものなのだろうか?

例えば、お手軽葬儀関連の記事を見ていると、必ずと言って良いほど出てくる親戚、遺族の反対。「そういう事は故人のためにちゃんとやってあげないとダメだよ!」「周りに顔向けができない・・」と革新的若者なら怒髪天を突きそうなセリフだけれど、多分これは

「ちゃんと葬儀をしてもらわないと『私』がお別れできないんです!」

という婉曲な訴えなんだ。

それは、そうそう無下にできないし、しちゃいけないと思う。

ましてや「私が喪主なので!」「故人が生前言っていたので」という強行突破はオススメできない。

生きてりゃわかると思うけれど、故人は息子のものでも妻のものでも無い。会う人それぞれに違った故人がいた訳で、それを「こうします!!」と勝手に決めるのはいささか傲慢じゃないかな。

それに自分が死んだ結果、生きている人の間でもめ事が発生したとあっては故人もうかばれない。

 

と、このように個人的にはDIY葬とかいわゆるお手軽葬儀は、よっぽどお金が無いとか、自分以外にほとんど身寄りが無いとか、特別な事情が無い限り今はやらない方がいいと感じる。

少なくともお手軽葬儀に反発してくる遺族がいる場合は、やはり「普通の」お葬式をした方が故人にとっても残された方に取っても良い結果になるはずだ。

 

まあ、おそらく僕ら(30~40代)が死ぬ頃にはお手軽葬儀も一般的になっていると思うから、その時は心置きなくDIYで葬られよう。