読解力のない人が可哀想
「現代文」ほど学生の時、得意不得意が分かれた教科は無いと思う。幸い僕は得意な方だったから殆どなんの勉強もせずに学生時代を過ごせたけれど、不得意な人は本当に不得意で見ていて可哀そうになるほどだった。憧れの大学を目指して必死に勉強している彼や彼女が、なぜか現代文だけできない。
「現代文教えてよ!」と友達から声をかけられる事もあったが、その度に僕は困っていた。
「何故わからないのか?」が分からないのだ。
そんなもん読めばわかるだろ?と。
だいたい現代文の問題というやつは大抵市販の書籍から引用されれいるわけで、つまり、作者や編集者、校閲者の手を経て何校も重ねた上で「よし、これなら読んでもらえる」という状態で世に出しているはずなのだ。
それを「意味が分からない」と言われてもどうしようもない。意味が分からないのはこっちだ。
当時、それがあまりにも不思議だったし、なんとか友達の力になりたかったから、予備校の現代文の授業に忍び込んで見た事がある(普段は受講してない)。
そこは、僕にとって語学学校みたいなところだった。
そこで講師はこんな事を言っていたように思う。
「『しかし』は逆接の接続詞で、作者の本当に言いたい事はこの後に書かれている事が多いです」
だって。
このレベルなのか。今まで「しかし」の意味を理解しないでよう今まで生きてこれたな、というのが僕の正直な感想でそれ以来、友人に現代文を教えようなんて思わなくなった。
世の中には読解力がある人間と無い人間がいて、それはとても埋め難い差だという事をすごく理解した。
そして、そういう人と分かり合えるかどうか、とても不安に思ったものだ。
もっとも、「現代文」の「読解力」なんて学校で教わる殆どの科目と同じで、社会に出てから活かせる能力では無い。大抵のビジネス文書は書き方が明確で、誰にとってもわかるように書かれているから「読解力」なんて必要ないのだ。
そういう事もあって僕は学生を卒業以来、「読解力のある人間と無い人間」が存在するという事実をすっかり忘れていた。
しかし、最近その「差」を見せつけられるような記事と出会ってしまった。
多分、書いた人は天才に分類される人なのだろう。
道路交通法の条文と現場の運用の齟齬を突くというもので、それ自体とても奇抜で興味深い内容なのだが、僕が何より惹かれたのはその文体。
何だろう、この不思議なぐらい現実感を感じさせないおとぎ話風の独特の文体は。
やや社会実験的な内容を扱っているのにもかかわらず、この文体のせいで、どこか異世界の事、例えば短編SF小説かあるいはホラー小説のように夢中で読めてしまう。
特に真面目な話をしている前段から、A県警との会話パートに切り替わった時の「迷い込んでしまった感」はちょっと最近感じた事が無いくらいゾクッとした。
案の定、はてぶでも大人気でブックマークも700を超えている。
ただ怖いのは、はてぶのコメ欄に明らかに「この物語を読めていない」人が存在する事だ。特に酷いのを紹介する。
nankichi “「ランドルト環」について、山のほうの向きを答えるべきだという、重大な誤った認識をもっていたよう”この一言で済むことを超長い文章に仕立てる謎の文章力は凄いな
この文章は絶対にそんな内容ではない。
この人が言っている事は、例えばある有名落語を聞いて
「お茶が怖いなんて臆病な人もいるもんだなあ」とか
「やっぱり秋刀魚は目黒じゃなきゃダメだな。気の利かない家来だ」
とかほざいているのと同じだ。
全く「面白いところ」がわかっていない。
確かに「ランドルト環」についての話は文中でインパクトの強い場面だと思うけれど、大抵の人は「これはひょっとして・・・」と思うはずだし、間違っても「主題」だとは考えもしないだろう。
もっとも恐ろしいのは、このコメにスターが多数ついていることだ。同様のコメントもちらほら見かけられる。
僕は、学生時感じた不安を思い出した。
一つの文章に対してここまで見解が相違してしまうと、もうその人が同じ世界観で生きているのかどうかすら怪しく感じてしまう。しかも、コメント欄を見る限りその割合は決して低くはない。もし彼らと会ったとして分かり合えるのだろうか?
クリオアと一緒で疑っていたらキリがない。
ただ同時に可哀想にも思う。
彼らは、こんな面白い文章に出会っても「何が面白い」のか分からないのだから。
それに「読む事」は人間のコミュニケーションや生きる楽しみを支える行為なので、「読解力がない」という事は思っている以上に致命的なのかもしれない。
学校を卒業して以来、僕は読解力について何も考えていなかった。
でも、これを機に改めて読解力を養おうと強く思う。
「わからない人」にならないために。
で、どうすればいいんだっけ?