【貧困JK問題】「散財」と「貧困」は両立する

最近「貧困JK問題」が話題だ。なんでもNHKが「貧困で進学を諦めざるをえない女子高生」と紹介した人物が実はそうでは無かったらしい。番組放送後明らかになったこのJKのtwitterを見る限り、彼女は日々「千円ランチ」や「チケットが一万円弱もする舞台」を堪能しており、「とても貧困だとは思えない」というのだ。

案の定ネットでは、甘えと断ずる精神論者、自己責任論者、財政問題野郎、そしてJK以下の暮らしをしているのにもかかわらず自分を貧困だと思いたがらない人によって、今、JKは袋叩きにあっている。

つまり、彼らにとっては「万単位を遊興費に費やすことができるのであれば、それは貧困とは言わない」ということなのだろう。

本当に馬鹿馬鹿しい。

 

結論から言うと「貧困である」ことと「月に万単位の遊興費を使うこと」は容易に両立する。

例えば年収200万以下のワーキングプアなどがそれにあたるだろう。極端な話、計算上は手取り14万でも生活はできるのだ。その上、生活費を切り詰めれば「3万円前後の遊興費」まで用意できるかもしれない。

遊興費が3万円あれば頻繁に「1000円ランチ」を食べれるし映画だって見れる。月一くらいなら観劇だってできるだろう。友人から見ても彼は立派に「普通の人」のはずだ。

でも、ワーキングプアの人々はその名が示す通り貧民である。いくら「貯金しろ!」と言われても精々月2万円が限界で、物の値段が数十万レベルになると手を出せなくなるし、将来の見通しも立たない。どちらにせよ状況が変わらないからこそ散財をするわけで「散財するから貧困なんだ!」というレベルの話ではない。

 

今、叩かれている貧困JKも同じだ。

ざっと調べると、専門学校の学費は2年で200万円強。親が支払いできるであろう金額(高校の学費)を引いても貧困JKが負担すべき学費は150万円前後にものぼる。

したがって、現状いくら倹約しても貧困JKが専門学校に入ることは不可能に近い。

これは逆に、貧困JKがいくら散財しようが「進学できない」という将来の見通しが立たない状況に変わりがない、とも言える。

つまり「JKが散財すること」と「貧困で専門学校にいけないこと」にも、やっぱり因果関係はないのだ。

これがワーキングプアであれば転職等のアドバイスもできるが、女子高生では選択の幅も限られるであろう。

 

結果として自分の努力ではどうにもならない「貧困」に彼女は置かれてしまっている。

 

したがってこの報道は捏造なんかじゃないし「散財を止めて学費貯めろ !」だの「散財する余裕があれば貧困じゃない!」などという輩はバカバカしく間違っていると僕は思う。 いったい何がそんなに憎いのか?

 

やはり「貧困で進学を諦めざるをえない女子高生」は存在していると言わざるを得ない。

 

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