不倫はしょうがないし、ベッキーのコト割と好きだよ、僕。
昨年の冬頃から僕の中で好感度が上がってきた芸能人といえばベッキーである。それまで良くも悪くもテレビ業界にとって、また視聴者にとって「便利な駒」としての役割しか期待されていなかったベッキーだっただけに、あの騒動を通して「ベッキーもベッキーなりにちゃんとした本性があったんだな」と、どこか親しみを覚えてしまうのを禁じえない。
きっと今なら「ちょっと、5限終わったらボーリング行こうぜ!」とか気軽に言えそうな気がする。そんな親近感だ。
だいたい、ベッキーのやったコトはたかが不倫である。
大麻を吸ったり、婦人警官に当て逃げをしたり、公共の場で全裸で前転したりとか、いわゆる犯罪を犯したわけではない。
にもかかわらず、この騒ぎ方と責められようは異常を通り越して不思議にすら思う。
言ってしまえば僕にとって不倫とは「しょうがないこと」の範疇に収まってしまうのである。
もちろん僕は不倫を積極的に肯定するわけではないし、自分としても「できればしないで頂きたいなあ」とは思うけれど、同時に「夫(妻)とは別の人を好きになってしまった」という感情もまた止めようがない。道徳とか道義とか言い募った所で、抱いてしまった感情が消えるわけもなく、そこに良いとか悪いとかいう判断をする余地がないように思えるのだ。
だからやっぱり、不倫は「しょうがない」としか言いようがなく、それに対して悲しみこそすれ、怒る人の気持ちが全然理解できない。
ましてやベッキーの件は完全な他人事である。
いや、もしかしたら他人事じゃないのかも知れない。
世の中には意外に多くの「川谷の妻」予備軍がいて、「妻(夫)に捨てられたら困る」とか「今の私(僕)じゃ何かあったときに負けてしまう」とか思ってる彼女(彼)達はベッキーという生贄に向かって渾身の力で石をぶつけるコトによって「私(僕)を捨てたらどうなるかわかってるね?」と世の中に、そして自分のパートナーに意思表示をしているわけだ。
そう考えると、なんとなく理解はできるし、逆にいじらしいとも思う。
案の定、テレビ局には抗議が殺到、一部の過激派はスポンサーの不買運動まで画策しているらしい。
その涙ぐましい努力は素直に認めるが、ベッキーにも是非頑張ってほしいと心から思う。
生きている限り「しょうがない」ことは「しょうがない」のに、それで誰かが潰されるを見るのはなんとなく嫌だから。