人生の「グルーヴ感」がつかめない

こんにちは。「コミュニケーション無ものには死を!」的な世の中になってから常に死と隣わせの生活を余儀なくされている瀕死の営業マンことニシジマです。

 

いったいいつからこんな生き苦しい世の中になっちゃったんだろうね。ただ、まあいつまでも赤いHPで歩いていても、いざ、エンカウントした時にただ死ぬだけなので、僕もついに最近、自分のコミュニケーション能力向上に向けて真剣に動き始めた。仕事場でも明るく調子よく、プライベートでは数年ぶりに合コンなんかにも出てみたりした。

そして、気がついたのだ。

 

 

「あ、多分これコミュニケーション能力の問題じゃねえわ」

 

確かにコミュニケーションを心がけたことで顔は明るくなったし付き合いもよくなったと思う。これでも数年営業職をやっているわけだから、その笑顔のまま話を続けることはできるしある程度盛り上がることもできる。

でもただそれだけなのだ。

なんというか圧倒的に「グルーヴ感」が足りない。

会話とか会合には、盛り上がるべき瞬間があって、そこに上手く一緒にノることで相手との距離感が縮まるものだと思う。

サザンオールスターズで言うところの「いま何時?」「そうね〜!だいたいね〜!」の掛け合いの部分だ。

僕は必ずそこで詰まる。半拍遅れてしまったり、逆に早かったり。「・・い、いま何時?」みたいな。にわか丸出しの盛り下げオーディエンスである。これではグルーブ感が生まれるわけが無い。

よくよく考えてみれば、このグルーヴ感の無さは昔から行動にも表れていた。

例えば高校時代、僕は一年の一学期の初日にクラスの学級委員として「自ら手を挙げた」。その時の僕はといえば、友達少ない、アニメ好き、隠キャラというどちらかと言わなくてもカツアゲされる方の側の人間だ。見た目的にも「まさしく」といった感じ。それが、緊張感あふれる入学式直後に名乗りをあげたわけだから、自分でも何を考えていたのか全くわからない。「そこじゃねえだろ!」と今でも、大声をあげたい。結果として僕はしばらく疎外される事となった。

このようなズレは、その大小はあるにせよ、それからも大学、就職、仕事と常につきまとっており未だ修正される気配は無い。

どうしでいつもこうなんだろう。僕だってみんなと一緒に盛り上がりたいのだ。こう、一体感的な「そうそう!ここだよここ!」みたいな思いをしてみたいのだ。

 

この「グルーヴ感の無さ」はいつだって僕を寂しい感じにする。

コミュニケーション本をいくら読んでもその答えは見つからない。

 

人生は誰にとっても新曲のようなものであると思う。なのになぜ、みんな抜群のタイミングで合いの手が打てるのか?グルーヴ感を生み出せるのか?僕にはわからない。

 

もしかすると、オタクが、リズムと一体感を重視する「オタ芸」や「コール」を好み熱中するのはこの「グルーブ感の無さからくる寂しさ」の代償行為なのかもしれないね。