日本人の軽〜中度難聴者に対する理解のなさは異常

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僕は、たまに耳が聞こえ辛くなる時がある。

 

悪い事(?)にそんな時でも日常会話程度なら何とかこなせるので「なんだ聞こえてんじゃん!それ本当?」的な反応をされてしまう事が多く、とりわけ口の悪い奴らからは「都合の悪い時だけ聞こえなくなるあれか?w」「佐村河内w」と茶化される事も少なくない。

仮にも「障がい者」に対して何とも雑な対応である。

というわけで、今回は一時的ではあるが何度も中度難聴者になったことのある僕から、軽~中度の聴覚障害がいかに「ウザく」「ツライ」ものであるかちょっとお話していこうと思う。社会が少しでも僕を憐れんでくれることも期待して。

 

僕はメニエール病だ。といっても「数年に一度、片耳の中度難聴を数日間」を発症するタイプでメニエール病の中では比較的軽い方。

難聴のレベルは40~60dbで基準表によると中度難聴(普通の会話を聞き取りにくい。正面から大きい声で話さないと、会話の意味を理解できない。)とされている。しかし、これを単純に受け止めて「なるほどね、ちょっと大きな声で話せばいいのか。OKOK」位の認識に落ち着かれてしまうとちょっと困ってしまう。僕の苦痛は、「音量が小さければステレオのヴォリュームを上げればいい。」程度の話で解決する問題ではない。

 

中度難聴の最大の苦痛は「耳に神経を集中するあまり他への集中力が極端に落ちる」というところにある。

かの有名な佐村河内氏はいっていた。

 

 

「隙間みたいなところから音が、こう、何とか一生懸命降りてこようとするし、それにはすごく集中が必要だし、自分はそれを自ら近づいていってつかみ取るようなイメージ」

 

 

僕が氏を本物だと確信した瞬間である。これほど的確に難聴時の聴くという行為を言葉にした例を僕は知らない。

 

難聴には佐村河内氏の様に耳鳴りや聴覚過敏等が伴う場合が多く、僕もそうだった。

そして、これが聴力が落ちることよりも大問題なのである。

特に耳鳴りは「あれ、こめかみにでっかいセミでも止まってるのかな?」という位の

大音響で、四六時中止むことはない。会話中でも、就寝前でも常にである。

気が狂いそうになって、「もう、完全に耳が聞こえなくなってもいから耳鳴りを止めてくれ」と思ったことも一度や二度ではない。

聴覚過敏も酷いもので全ての音が壊れた拡声器から発せられるように聴こえる。耳は閉じられないから、雑踏の中を歩くのでさえ苦痛だった。

 

僕を含め中度難聴者はそういう邪魔を排除して正しい音を探さなければいけないのだ。その精神的負担は半端なものではない。単純な会話ですら、音を聞き、話を成立させる事に精一杯で内容なんて頭に入ってこないし、静かなところは静かなところで今度は耳鳴りが気になりだして何事にも集中できない。楽しい事も嬉しい事も常に難聴が傍で存在感を示している。

例えるなら、もしあなたが「意識的に心臓を動かさなければ死んでしまう」人だったとしたらどうだろう?おそらく心臓の管理が気になって会話も仕事も恋愛も上の空になってしまうのではないか?

中度難聴者の生活というのはそういうものだ。

 

僕は期間限定の難聴だからまだ良いが、突発性難聴や重度メニエール病で常に苦しんでいる人はたくさんいる。そんなにいる様に見えないのは、おそらく彼らが頑張っているからだ。

しかし、彼らの頑張りゆえに軽〜中度難聴の苦悩は理解されない。だからこそ、冒頭の様な反応や軽口がまかり通ってしまうのだろう。頑張っているのに理解されないというのはとても悲しい事である。

健常者の皆さんにはどうかその辺のところも踏まえてよく周りを見てほしい。いつも快活なあの娘が、いつも真面目なあの男が、難聴者かもしれないのだから。

 

佐村河内問題とは何だったのか―新潮45eBooklet

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