僕は気がつかない

僕は大学生の時イベントサークルに所属していた。と言っても、過剰なエネルギーと有り余る時間との釣り合いが取れていない男女に出会いを提供し、解放への筋道をつけてあげるような心優しき結社ではない。例えば、学園祭で公演する有名人を手配したり、簡単なゲーム大会を催したりといった、どう見積もっても健全な、イベンターのようなサークルだ。

そこで僕は「運営総指揮」というとても肩書きで仕事をしていた。これは大学生の僕には、今とはまるで違う大胆な行動力と回転の早い頭があり、加えて「とにかく部員が足りない」という些細な外的要因が重なった結果だ。この仕事はその名の通りサークルが主催するイベントを企画したり進行計画を立てたりそのために人を動かしたりする面倒臭いもので、でもその時の僕は燃えながらやっていたと思う。周りからの人望も厚く充実もしていた。

まあ、まさかこの肩書きが約30年の人生の中で唯一のものになるとはさすがに当時は思っていなかったけれど。

 企画とか下準備は我ながらうまくこなしていたと思う。ただ僕は、当日の動きを確認するリハーサルがどうしても苦手だった。OKを出して終わろうとするといつも後輩から「いや、あそこの出るタイミングおかしくないっすか?」とか指摘が入る。それで、その部分を修正して終わろうとするとまた後輩から「そういえば台本がおかしいような・・」と言われてしまう。

当時は、「いやあ、みんなよく見てるなあ」と思っていたけれど実は違う。僕が気がつかなすぎなのだ。社会に出てそれがよくわかった。

とにかく僕は色々なものを見逃す。取引先との会話の流れだったり、仕事上の確認事項だったり、暗黙の了解と呼ばれるような空気だったり……。どれも「そこは分かれよ!」という点ばかりだったから、そりゃあ肩書きもつかないわな。

しかも歳を感じるごとに見逃しは酷くなっていって、最近は壁によくぶつかる(比喩じゃないです)とか、山積みの商品をよく崩すとか、自分の体の大きさすら把握できない有様だ。

こんな風だから感性も酷く鈍っていて、どんな映画を見ても本を読んでも「まあまあだな」位ですぐに記憶から消えてしまう。例え面白いと感じてもそこから先に進めない。何か見ているようで何も見えていないから、心が震えるというところまで到達できない。映画のCMで「感動しました!」と泣いている観客をよく見るけれど、それは本当に羨ましい事だと思う。

 多分、日常生活もこうなのだろう。僕以外のまともな人たちは、一見同じように見える毎日の中で、幸せや感動や怒りや憤りを見つけて、それを糧にそれなりに生きている。某缶コーヒーのCMのように。

それに比べて僕の前にはいつも同じ景色が広がっているだけだ。どこかに素晴らしさが潜んでるんだろうな、と思いながら目を凝らしても僕には何も気がつけない。全く悲しく哀れな事だ。いつまで同じことが続くんだ、クソが。

だから、僕はこんな誰も見ない日記を書いている。有名ブロガーが長年日記を書き続けている訳を「結局、自分の文章が好きだから」と話していたが僕は違う。自分の凡庸で平凡でちょっと偉そうな文章が大嫌いだ。書くのだっていやだ。

それでも書くことをやめないのは「ああ、あの時はちゃんと生きていたんだな。気がついていたんだな。」という実感を後から後から得たいからだ。いつか「その時は気づいていないと思っていたけれど、実は気づいている自分」に気がつきたいという希望がある。それができたらとても素晴らしことだ。後、何かを残していかないとあの時自分がどうやって生きていたのか、本当に存在していたのかすらも分からなくなってしまいそうで、それもとても怖い。残念なことに仕事も日常も振るわない僕には日記しか残せるものがないのだ。

まあ、結局どんな状況下でも自分の才能の無さや文章が嫌いなので、今のところ過去の日記を見返すことなんて全くしていないけれど。